作品の感想を考察で裏付けるブログ

というのは名ばかりの、あまりにも煩雑なブログ

華にだけなれるぜゾンビランドサガ9話

1.私見

サキ回こと9話の評価を定めることは非常に難しい。

正直に言うと、一度目の視聴ではかなり期待外れだった。

期待外れというからには当然、見る前に期待を持っていたことになるが、そうさせた原因が8話にあったことは想像に難くないはずだ。

毎週あのレベルが続いていく、もしかすれば上回ることすらある、という身勝手な願望を半ば本気で信じられてしまうほどに、8話の持つ熱量は私の心を昂らせてしまった。

そこにプラスして、私のお気に入りキャラであるサキがフィーチャーされることもあり、私の作品に対するハードルは極限まで高まってしまっていたのだろう。

だから先程も言った通り私は、落胆という形で己の身勝手な期待の代償を払うこととなったわけだ。

内容に関して言うならば、純粋におもしろい要素が足りないと感じた。特に本編との関係が薄く、熱く感じられないライブパートと、そこで使用される曲のパロディじみたチープさが目に付いた。

そのあまりの失望感は、何がそう至らしめたのかを特定することで腑に落ちたいという、邪な視聴動機を生んだ。だから私はもう一度9話を見返すことにした。

そうしたら不思議なことに、これが意外と悪くなかった。欠点を見つけに見つけてやろうと思って見始めたのに、そこそこ楽しんでしまった。

何かがおかしい、なぜこんなことが起きたのか知りたい。そう思った私はまたしても見直すことにした。

すると今度はちょっとした感動まで抱いた。サキの不器用な信念に私の胸は揺さぶられていた。本当に不思議だった。疑問が尽きなかった。

なぜ初回時はつまらなかったのか。そしてどうして見るたびに評価が上がっていくのか。訳を知りたいという好奇心は、私を再度の視聴へと誘うことあと三回。結果としてすでに五回も同じ回を見てしまった。

これを楽しんでいると言わず、何が楽しんでいることになるのだろうか。

そんな紆余曲折を経てようやく一定の回答を得たので、これから話していきたい。

先に言っておくと、今回のストーリーの構造は単純に見えて掴みづらいものだった。

そうなっている原因は、登場人物の感情のほとんどが、我々の推察の上でしか把握できないほどに描写不足だからだ。

また今回の話は、二つの要約の仕方がある、ということに気づいた。

前回は「リリィと父が絆を取り戻す話」だという直観がすぐに得られたが、9話は何が話の軸なのかがいまいちわかりにくい。

結論から言えば、今回の話はあくまで「サキが自分の生き方を死んでも貫く話」であり、これを「サキがレイコとマリアの問題を解決する話」と捉えると問題が生じると私は考えている。

つまり初見時の私は後者の視点から物語を見てしまっており、回数を経るごとに前者の見方へとシフトしていっていたのだ。

後者の視点の問題点や、どういった点が描写不足かについては本論で述べさせてもらいたい。

なお、パロディについては触れない。

私は若いのでパロディ元に思い入れがないからである。何を言ってもよく知らないけれど、という前提がついてまわるのでいっそのこと一切関知しないことにした。

 

2.前提の確認

とりあえず共通の見解を得るためにストーリー内容をまとめておく。

サキの死因は、20年前に行われたレディース同士の威信をかけたチキンレースにおいてリスクを冒し、鏡山の崖から突っ込んでしまったことだった。

重要人物はサキ、サキのかつての盟友で、レディースグループ「ドラミ」元総長レイコ。最後にその娘で現ドラミ総長であるマリアの3人。

サキが解決を迫られた問題は、盟友レイコのために、かつて自分も命を落とした危険な決闘にマリアが挑むのをやめさせること。それも、アイドル家業に泥がつかないような方法で。

解決方法はサキが一日特攻隊長としてマリアの代わりに決闘に挑み、かつてと同じように崖に突っ込んでバイクの爆破に巻き込まれるも、ゾンビゆえに帰還を果たすというもの。

これによりサキはマリアを守ることに成功、ライバルグループ「コロスケ」を退けつつ魅了し、フランシュシュのファンに変えることにもまた成功したのだった。

これがが9話のアウトラインである。

 

3.重要な要素の考察、定義

・マリアとレイコの複雑な関係、そしてそれにサキは気づいていたか

これを明確にすることは今後においてかなり重要だ。

なぜならこの問題こそが今回のストーリーの起点であり、三者の動機と目的を定義づけるからである。

まずマリアはいつもペコペコ謝ってばかりの母を情けなく思っている。その反面ドラミを引き継いでいることから、総長だった母には少なからず誇りをもっている模様。

要するにドラミを続けることは彼女にとって、弱い今の母を否定するための行動というわけで、これはマリアを止めに来たレイコに向けて自身でも言っていた事実だ。

次にレイコはマリアにいい子でいることを求めすぎ、マリア自身と向き合えていない。そしてそのことが彼女を非行に走らせた、と私は考えている。

レイコ自身もそのことには思い当たる節があるようで、マリアに「お前には関係ないだろ」と言われた後に、なぜか「ごめんね」と謝っている。

これはマリアの非行の原因の所在が自分にあると考えていることの証だ。

そしてその後、サキとの写真を見ながら「今のあたしをみたらどう思うね?」と問いかけている。

これは昔に比べ、脅迫的なまでに「普通」に固執してしまう今の自分への問題意識を持っていることと、そうなった原因がサキの死にあることを表しているのだろう。

つまりレイコはサキの死にショックを受け、若い頃の自分=不良時代は間違いであるという観念を強く抱き、サキを助けられなかった代償として娘に普通を強いているというわけだ。

そしてサキは、母について聞かれたときのマリアの「あんな腰抜け」という発言と、娘には「普通」を与えてあげたいと語っていたレイコの回想から、親子の複雑な関係を少なからず感じ取っていたと考えられる。

・なぜサキは普通がわからないのか

初めは全くの不明だった。サキの出自が何一つ明らかになっていないためである。

サキがどうして特攻隊長になったのか、なぜ無謀で死に急ぐような生き様を肯定しているのかについての説明が欲しかったと考えるのは妥当な話である。

今のところは「サキは現にそういう人間で、生前もそういう人間だった」という変えようのない事実をそのまま受け入れておいてほしい。

・サキが再び崖に飛び込むことは何を意味するのか

これについては後ほど確認していく。

・レイコはサキが本人であると気づいたか

「あたしは絶対死なんばい」と言われた後、かつてのサキの姿が重なって見え、ハッとしたレイコ。これにより少なくともレイコは、サキと目の前の少女に高い関連性を感じていたはずだ。実際に気づいたかどうかは定かではないが、それを決められるファクトはないし、必要も全くない。

もし仮に気づいていたとしても、彼女はそのことを誰にも言わず隠し通すだろうし、画面の外で見ている我々にも気取らせることはしないだろう。

彼女とサキはそれだけ深いところ通じ合っているのだ。だからこそ正体を明かさない中での行動でも、サキのレイコへの思いはキッチリと伝わるのだ。

これと全く同じことが8話のリリィと父にも言える。

 

4.問題提起、初見時の不満の正体

ここからは本格的に問題だと感じた点に言及していく。

9話で最も気になったことは、サキを見る視点の不足だ。

サキの動向を見守っていたのは巽ただ一人。見る視点が不足しているということはすなわち、サキの心情を描く機会が少ないという問題に直結している。

心情を描く機会が足りないとは、我々が感情移入する隙が少ないということだ。

少なくとも私には、サキが何を考えているのかが非常にわかりづらいように思える。

彼女が自分の死をどう考えているのか。マリアにどうなってほしいのか。レイコに何を伝えたいのか。サキの感情的な動機が簡単には見えてこない。

8話を思い出してほしい。リリィの感情を描くときは、常にさくらがリリィを見ることによって表されていた。視聴者はさくらを通してリリィの感情を掴み、同時にリリィを心配するさくら達メンバーの感情にも入り込むことができた。

だから初めて見終わった後に私は、サキが一人で解決してしまった今回の事件に、少なからずフランシュシュのメンバーが絡むべきだったと思った。そうすることでサキの感情をもっと丁寧に描けたのではないだろうかと。

ただ同時に、脚本が何故そうしなかったのかも明白だった。まずアイドルと不良とは相容れないものであり、不良の抗争にグループで頭を突っ込むのは現実的ではない。

それと、自分の問題を自分一人で解決するサキの気高さや、ハードボイルドさを描きたかったから、という二つが考えられた。

しかし今回のように、不良の問題を昔と同じ不良のやり方のままで解決してしまっては、アイドルになったことによる変化や成長が全くないと言っているのと同じではないか?

これが初めて見たときに感じた違和感のうちで最大のものだった。

サキは死んだときと全く同じ行動を、積極的に取った。そのときとの違いは彼女がゾンビだったことだけだ。つまり、9話の事件解決方法は、サキの死を肯定しているのだ。

この事実は一歩間違えれば、作品を整合性の不和に引きずり込むリスクを孕む。

順を追って説明しよう。ここで注目したいのはレイコだ。

レイコの持つ問題は、サキのことを繰り返したくなくて娘に普通であってほしいのに、そうあってほしいと願うほど娘は反発してしまうというジレンマを抱えていること。

それから、差し迫った鏡山での娘の対決を防ぐことの二つだ。

サキにはこれらを解決する物語的な義務がある、と初見時の私は思っていた。

そしてここで制作側は、サキがバイクで崖に突っ込む覚悟を見せること=無鉄砲な不良精神を見せるという力業で解決=作品として肯定してきたわけだ。

これにより直近に迫っていた対決はもちろん回避できたわけだが、レイコのジレンマの方はどうだろうか。

レイコが娘の「普通」に固執するのはサキの死=無鉄砲な不良精神に原因があった以上、何の解決もなされておらず、むしろ逆効果になると考える方が自然でないか?

ここで逆効果にならない場合というのは、サキの無鉄砲を認める=娘がいつかは死ぬかもしれない不良行為を続けることを認めるのを意味する。

それは道徳的リスクを多分に孕んではいないか?

あちらを通せば整合性が取れず、こちらを通せば道徳的にまずいというジレンマ。

これこそが私が一番最初に語った、「これはサキがレイコとマリアの問題を解決する話ではない」ということの意味である。

サキには親子の問題を道徳的に解決する義務など無いし、ましてやマリアにレディースを辞めさせる=不良精神を否定する気もない。これは、「サキが自らを貫く物語」なのだ。

そう捉えなおすとどうなるかについては次章で詳しく話すことにして、先に他の問題に切り込んでおきたい。

次は、「アイドル活動だ」と言ったのにやっていることは不良じゃん、という問題だ。

最終的にフランシュシュのためにはなったがご都合主義感は否めない。もしかしたら警察に見つかってフランシュシュの存続が危ぶまれる可能性もあったわけだ。

それに関しては巽が言及していた=制作側が自ら言及していたにも関わらず、ご都合主義に抑え込んでしまったのは残念だ。

それから、今回のサキの個人主義を肯定することは、純子の件を通して得たフランシュシュのあり方を覆すものだとも言いたい。

7話で巽は言った。「フランシュシュは時代を超えて助け合う存在の集まりだ」と。にも関わらずこの解決方法はいかがなものだろうかと思う。一人で危ない橋を渡りすぎではないか。

だからこそ私は、事件にはフランシュシュとして一丸となって取り組むことになると予想しており、それが裏切られたために失望を覚えたというわけだ。

最後にライブパートが取ってつけたものになってしまっていることにも言及したい。

今まで、フランシュシュはライブを通して問題を解決してきた。純子、愛、リリィ、ラップによるサキとの和解、全てはライブの中で話が動いてきた。死んでいるゾンビがライブ(=生)で、だ。

それにより先が読めず、今まさに彼女たちが即興で物語を紡いでいるかのようなアクチュアルな生きた情動を得られていた。

比べて今回のライブやストーリーは、着地点が初めから見えており、そこに向かっていくのを見る普通のアニメのようだった。らしくないのだ。

私には前から信じて疑わないことがある。

アイドルアニメのライブシーンはエロゲのHシーンと同じだと。

上質なスペクタクルを描き出すためには、そこに至るまでの葛藤や困難もまた上質でなければならない。誰だって作品のどこかでその場面がやってくることはわかっている。だからこそ、いかにそれを見るものに予感させないかが大事なのだ。

 

以上のような問題が9話にはあった。

それらが私の初回時の期待外れを生んだ。しかしそれらの問題を生んだ原因もまた存在する。結局、不良という劇薬の扱いが難しかったというわけだ。

サキを見る視点の不足も、整合性の問題も、個人主義の肯定も、ライブで問題を解決できなかったのも全て不良とアイドルの取り合わせが悪いからだ。

この二つをうまくミックスさせるのはきっと至難の業だ。ましてや、それを限られた尺の中で表現するのはもっと難しいのだろう。

ただ不良であるサキにしか見せられないものも同時にあるのだ。

 

5.新しい視点の導入、再評価と優れた点

ここからは翻って、評価を好転させた要素について話していく。

キーになるのはもう何度か言っているとおり、物語を見る視点を取り換えたことだ。

それをわかりやすくするために、再度サキが今回抱えていた問題意識を確認しておくと

まずは盟友の娘のピンチ。次にレイコとマリアのわだかまり。そしてアイドルとしてその二点を解決しなければならないという三つだった。

そしてサキが取った解決方法は、自分が死んだときと同じように崖から突っ込む姿を見せること、そして帰ってくることだった。

先程までの考察もとい初見時の感想は「サキが二人の問題を解決する話」だという前提に立っていた。つまりそれは、問題を解決することが目的であり、その手段として飛び込む方法を選んだという認識の仕方だ。

これを「サキが自らを貫く物語」として見直してみると、崖から飛び込む自分を見せつけることこそが目的となり、結果として問題が解決されるというわけだ。

この転回を思いついたとき、私の9話に対する感想は一変した。

まず4章でサキが自分の死をどう思っているのかについての描写が無い、と指摘したがここにあったのだという気付きを得た。

サキが再び飛び込むことこそが、彼女がとっくに自分の死を受け入れており何の後悔も持っていないことの表れだったのだ。

死に様に後悔がないということは、それまでの無鉄砲な生き様にも後悔がないということだ。

何が言いたいかというと、私は自分の死についての感情の提示が先にあり、それが事件を通してどう変わるか描かれるのだという思い込んでいたため、結論にそれが来るとは思っていなかったのである。

それから成長がないとも指摘したが、無くて当然だ。新しい視点において、サキは物語が始まる前からすでに肯定できる自分を持っているからだ。

これも一つ前の話と同じで、私が勝手に「これはサキが成長する物語なんだ」と決めかかって見ていたことによる問題だった。

要するに9話は、一から話を積み上げていくボトムアップ的な発想の物語ではなく、「サキは自分を貫く」という命題が先行する極めてトップダウン的な物語だったということだ。

さらに詳しく解説を続ける。

新しい視点においてサキがもう一度崖から突っ込む覚悟を見せることは、親子に対してどういう意味を持つのか。

まずマリアに対しては親への反発で中途半端にレディースをやるのをやめさせるという意味がある。

そしてレイコに対しては、自分の死が原因である過去を否定する考え方をやめさせ、あの頃の気合を取り戻させるという意味を持つ。

これはレイコがサキに怒鳴った際にニヤリと笑っていたことからも明らかである。

さらにもう一歩突っ込むならば、今度は崖から帰ってきたために「あたしは絶対死なんばい」という約束を果たし、レイコのトラウマが消えたと見ることもできるかも知れない。

レイコが過去を否定するのをやめ、サキが死んだ事故を受け入れたならば、「普通」に固執することはなくなり、マリアがそれに反発することもなくなるのだからなるほど万事解決と捉えることもできるというわけだ。

ただ、初見でこれを直観するのはかなりハードだ。そしてサキがその全てを考え、狙って引き起こしたとも思えない。

彼女はあくまで自分のやりたいようにやった。そして自分を貫く様を見せ、自分の過去と現在の全てを肯定してみせただけと考える方が自然だ。

それを見た者が何を感じ取るかは、見た者次第なのだ。サキだけでなく見られる誰しもが、それに干渉することはできない。それはこのアニメに関してもだ。だからそれについて悩む必要はないし、自分が信じることをすればいいのだ。

事実、その後マリアとレイコがどうなったのか、二号のファンになったこと以外全く明らかになっていない(親子で顔を見合っていたシーンとマリアが二号に憧れていた場面から推察は可能だが)。それは描く必要はないというスタンスなのだろう。

結果がどうなるかなんて関係ない。サキにはそのやり方しかないし、彼女がそれで解決すると強く信じて遂行しきったことが重要なのだ。

そしてこれは間違いなく見られるべき者の考え方だ。無鉄砲さを省みず、自分を疑わずに信じ続けることは、誰にでもできることではない。生まれつきある意味で選ばれた人間だけができることだ。だからこそサキには「普通」がわからないのかもしれない。

つまりそれは、サキが根っからのパフォーマーであり、アイドルの素質があったということを意味する。その名前の通り、咲く姿を見せるために生まれてきた人間だったわけだ。これはまた、ED曲のサビでもサキが自分で言っている「学もねぇ、明日もねぇ、華にだけなれるぜ」と。

おそらくサキは自分が、あれこれ考え全員がうまくいく方法を見つけられるタイプの人間ではないと知っていたのだろう。だからこそ生前から自分にできる唯一のこと=咲く姿を見せつけることを愚直にやり抜いてみせた。それこそが彼女のアイデンティティであり、誰にも劣ることのない覚悟なのだ。

それに気づいたとき、私は作中のややこしい因果関係を考えることをやめ、ただ純粋に画面の中の彼女にだけ集中した。そこには確かに、輝きを受け咲き誇る彼女がいた。

 

6.評価が上がった今も良作止まりな理由とまとめ

感動的に前章を締めくくったが正直に言って、擁護不可能な部分も存在する。バイクで突っ込むのがアイドル活動なわけがない。ライブパートも後付けだ。

ただ、「これはあの二階堂サキがメインの回だぞ?」という主張に勝る否定をすることもまた、どんな命題にもできない。

存在自体が気合と根性な人間を描くことに、論理性を求めること自体が間違いだ。

それから、アイドルと不良という対極のテーマを合体させようとしたスタッフのフロンティア精神にも敬意を表したい。

作品の不良に対するスタンスも、不良行為には評価を下さず、それを通して得た絆や感情は肯定するという優れたものだった。

 

しかし最後にこれは言わせてもらおう、良さがわかるまで超めんどくさかった。

ここまで考えてやっと理解できたが、時間も手間もかかりすぎだし、どうも自分自身で不足している要素を無理やり作りあげた感が強い。

それはつまり感動を得るために自分で自分を高めていくような行為、そうオナニーだ。今俺は感動すると共に、オナニーを終えた後のような虚無感もまた感じている。

俺がアニメに求めてるのはオナニーじゃない、デリヘルだ。お前らプロなんだから俺の事をうまくエクスタシーに導いてくれよ、ということだ。

分かったらさっさと次の話を見せて、今度こそ俺を純粋に感動させてくれ。

とりあえず以上を持ってこの感想と考察を終わりにしたい。

私の拙い記事で、少しでも閲覧者の9話への認識を変えることができたのなら光栄だ。