作品の感想を考察で裏付けるブログ

というのは名ばかりの、あまりにも煩雑なブログ

作品の感想、考察を書く上での私的注意事項の羅列

一つ前のグリッドマンの記事で話したことに通ずる話だ。

よくネット上で今期の覇権は何か、こっちのがあっちより優れている、という類の議論が頻繁に見られるが、あんなもの全部ゴミだ。少なくともそう思った方がずっと健全だ。

アニメに絶対的評価なんてものはありえない。

全てのアニメは視聴者が見るという行為の中にしか存在できない。

アニメは行為なのだ。

そして受け取り手の境遇に大きく依存する。

完全に公平な視点というものは存在しない。

だから全ての感想、意見には「私にとっては」という言葉を文頭につけて読むことを推奨する。

それをいちいち書かせるのは面倒だし、読む人間が認識を改めなければ、そうと書かれていても意味はないからだ。

では、アニメの評価を通じて他者と健全なコミュニケーションを取ることは不可能なのか。

そんなことはない。しっかりと意見のファクトを提示し、自らの抱いていた期待、作品を見た自分固有の問題までを視野に含めればいい。

つまり、自分自身の行為としてのアニメの感想を書けばいいのだ。

それはもはや巷で言われる批評の域を超え、新しい物語を紡ぐのに等しい。

ただ本来全ての感想は物語と同じく、文脈上で語られるべきだし、語られていると見る側が認識するべきだ、というのが私のスタンスだ。

ここまで、すごく説教臭くなってしまい非常に申し訳ない。そんなことわかっているという方にはウザかっただろう。

ただSNSというものの持つわかりやすさは、文脈というものを犠牲にした上に成り立っており、この手の問題を引き起こしやすい構造だということから書かせてもらった。

というのは理由の半分で、もう半分は私自身が度々そのことを忘れて、このアニメはあれよりつまらない、劣っていると決めつけてしまうからだ。

これは結局カレー好きな人間が、あのカレー屋はうまいが、それに比べてこっちの寿司屋はまずいと言っているのと同じことだ。

寿司好きの人間からしたら真逆のことを言う可能性が高いだろう。

ではなぜ飲食店ではこのようなアホな議論が起こらないのにアニメでは起こるのだろうか。

それは、実際観てみるまで何が提供されるかわからないのがアニメだからだ。

観るまでは寿司屋なのかカレー屋なのかすらわからない、とまではいかないが、寿司屋なのか和食屋の一部として寿司も提供しているのかまではわからないのだ。

だから寿司だけに期待して行ってみたら寿司を含んだ和食のコースが出てきて思ってたのと違った!となるわけだ。

もっとも予想を裏切られても、期待を上回ってくれることだってたくさんある。

ただ同様に下回られることや、観る側の性質との相性の問題で受け入れられないこともあるのだ。

アニメを評価する関数は、二次元や三次元という低い次元ものではなく、もっと高度で複雑な次元のものだ。

人がアニメを観定めることは、その人の持つ様々な尺度の価値評価基準を総動員して行われている。

その価値評価基準がどのような順番で何個あるのかは全て個人に依存する。

ゆえに我々が良い批評を行うためには、その作品がターゲットとしている層はどこなのかと、その作品がどんな面白さを伝えようとして作られたのかの二点を、自らの境遇と照らし合わせて考えてみる必要があるだろう。

そういう作品の批評を通して自分自信を見つめ直し、発展的な議論をしていくことが私の目標だ。